変な妄想の話

変な妄想をすることがある。

例えば、こんな具合。ちょっとした知り合いの可愛らしい女の子(架空)が、実は僕のことが好きで、その想いを焦がしている。けれども僕に恋人が居ることを知り、切ない気持ちでその恋をあきらめる……そんな展開があったら、なんか嬉しいだろうな、と。

いや、自分で読んでも「何様!? 気持ち悪っ!」と思うし、そもそも僕には付き合っている素敵な彼女がいて、彼女に関してひとつの不満もないし、今の生活にとても満足している。今書いた妄想も、実際にそうなって欲しいと具体的に思っているとかっていうのでは全くなくて、本当にちょっとした妄想として、ふと思ったりするだけということに過ぎない。

多分、基本的な自尊心みたいな問題なのだろう。だいたいは興味がないつもりでいるけれども男ならやっぱり「モテる男」に対する憧れはなんとなくあるのかもしれない。それに人間、本当に基本的な次元の問題として、褒められたり好意を持たれたりしたら嬉しいものだと思う。

「そもそもお前、女性と関わる機会すらないだろ」とか「自分の冴えなさを鏡で確認したまえ」とか周囲から声が飛んできそうだけど、その辺のことは先刻承知。現実ではないことだからこそ妄想なのだ。

あとは、自分がナンパをしたら100回中何回成功するのだろう、とか、ジャニーズのアイドルとしてデビューさせてもらえる機会があったらファンはつくのだろうか、とか、そんなことを考えることもある。

くり返すようだけれども、実際にナンパをしたいわけではないし、アイドルになりたいわけではない(人前に出たいタイプとは真逆の性格)。自分がもしもそういう状況だったらどうなのか、というある種の思考実験みたいなものだ。モテたいと現実的に思っているわけではない。ただそういうことをふっと妄想するときがあるというだけ。

ちなみに、妄想を現実と混同していることを勘違いと呼ぶなら、経験的に、男には勘違いは多いと思う。男は自分を現実より2倍男前だと思っていて、現実より3倍有能だと思っている。そんな気がする。

at 08:17, K, のはなし

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射程の長い思考

最近見かける言い方では「意識の高い学生」というのか……

大学生で、入学したときから就活のことを意識して、ボランティアだとか留学だとかサークルの幹部だとかゼミ長だとか社会人と関わるイベントの企画運営だとか学外との交流だとか、そういうことバリバリやって充実した爽快な顔をしている自慢げな人たちを見ると、なんか違和感があります。

違和感というか、もっと率直に言うと、嫌悪感が。

もちろん人にはよりますし、何もしないより積極的に活動をするのはとてもいいことだとは思うのですが。

で、どうして嫌なんだろう、自分より能力があって行動的な人たちに対する妬みなのかな、とか考えてみたんです。
それで思ったのは、実際にそうであるかは別として、どうも自分には彼ら(意識の高い学生)が射程の短い思考で行動しているように見えてしまうのが原因のようだということ。

射程の短い思考というのは、とりあえず暫定的にある産業界の価値観(と言われている何か)に従って、「企業が求める学生像ってこういうのなんでしょ!」という表面的な反応で行動しているように見えるという意味です。そういった種類のゲームに、「空気」で無反省にのめりこんでいるだけに見えるというか。

お前は他人のこと偉そうに言えるのかよ、と言われれば正直なところそうではありません。が、それを一旦カッコに入れて純粋に感じたことを(間違っているかもしれないという留保の上で)言わせてもらうとすれば、です。

大学で学ぶということは、目の前にある価値観そのものを相対化して、自分の頭で考えることだと思うのです。そして、例えば経営学部なら学びは小手先のマーケティング理論だけではなくて、社会とは何か、労働とは何か、会社とは何か、といった対象範囲の広い原理的な問題に向かうべきです。

今ある世界が、必然的で唯一絶対の世界ではない。かつてはこうではなかったし、これからも変化していく。このことを考えた上で、今の典型的な「意識の高い学生」の行動というのは、本当に批判的に世界を考えているの?と個人的には疑いたくなります。その行動、そんなに大事で意味があるのかなと。

彼らの「オレ、仲間にも先生にも恵まれて、大学生活充実してます!」という満面の笑顔が、何かとても苦手なんだよなぁ。
君が大層充実していて素晴らしい人生を送っているのはわかったから、そううるさくしないでくれ、と。「いわゆる」意識の高い行動ばかりしてないで、もっと我が道を行ってくれよ。

お前がひねくれてる、ひがんでるだけだよと言われれば、やっぱり多分それで合っているんだと思いますが。


そのままだと関係がないようですが、近頃のバス事故に関するニュースを見ていても同じような居心地の悪さを覚えます。

運転手の労働条件とか、ビジネスとしての業務の委託と受託の構造とか、そういうこともたしかに大事でしょう。
でも、それはバスによる人の輸送サービスが成り立つという前提の上での議論であって、コンテクストを所与のものとして受け入れた上でのコンテンツの議論です。
本当は、そうではなくて、そのコンテンツが今そこに成り立っているコンテクストについて、多くの語るべきことがあるんじゃないかなと。

「車は望ましくない動きをした場合には容易に人の命を奪う乗り物である」とか「人は間違いを犯すことがある」とか「他人が運転する車に乗るということは他人に命を預けることである」とか、そういう基本的な認識についての批判的な思考、射程の長い思考を抜きにして目の前の細かい問題ばかり争っていても、根本的には何も解決しないのではないでしょうか。

もちろん考えていけば争点はどこまでも大きくなるのでいちいちそんな話からしていられないということなんでしょうが、それにしても、そんなことを言っているうちに本当に考えることをやめてしまっているのではないかと不安になってきます。

「ほとんどの問題には短期的で合理的でクリスプな解決策があるが、同時にほとんどの問題はその解決策を生み出す発想そのもののうちにすでにはらまれている(平川克美『移行期的混乱』)」

コンテンツの良否を語っていればいい場面もあれば、理念や規範や哲学まで遡ってコンテクストの良否を語らなければならない場面もあります。問題設定そのものを矮小化することで「我々はこの問題をハンドル可能である」と思い込むのは、知的負荷が少なく主観的に安心するだけで実際は非常に危険なこと。我々が小手先の大したことのない問題だと「思いたい」ことと実際にそうであることとは、当たり前ですが無関係です。でもこのことがあまりちゃんと意識されているようには見えません。

シイナリンゴさんも言っているじゃないですか。「Hit! ランキングのイノチは短い」そして「Rock! ミュージックのキキメは長い」って。
我々が一喜一憂するのはまさに目の前にある具体的な事象、ヒットランキングだったりするわけですが、そんなものは一か月もすれば忘れられてしまう、普遍性のないもの。
キキメの長い、射程の長い思考をしなければならないよなぁと思います。

論理性もなく、他人事のようなお気楽な記事だと怒られてしまうかもしれませんが。言うまでもなく誰でも程度の差はあれ「同じ穴の貉」だし。

at 07:28, K, 考えてみる

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トリックアートミュージアム!

GWのデート企画ということで、彼女と横浜中華街にあるトリックアートミュージアムに行ってきました。

中華街の中にいきなりあるミュージアムということで、どの程度のもんかは正直よくわからないまま行ったけど、中身は質・量ともに充実していてかなり大満足!

よくテレビで見るようなトリックはだいたい網羅されている感じで、トリックの世界をとても堪能できました。





何気なく壁に絵がかかっているようでいて、よく見るとペンギンとか魚とかこっちに飛び出してきてね?というトリックアート。





こちらはラッコ。こういった飛び出し絵(?)のコーナーが最初にあり、最初からかなり度肝を抜かれ、不思議な気持ちになります。写真で見るとそれほどでもないかもしれませんが、実際に見ると「え? え?」とかなりびっくりします。自分の感覚や現実感が揺らぐというか。





これは立体的な街。ただ立体的なだけでなくて、自分が動くと景色もニョーンと動くのです。ニョーンと。「え、これどうなってんの?」と近付いていくとタネがわかるのだけど、その瞬間の「うおおおお」感はすごい。


しばらく騙し絵を見て、さて次のコーナーへ移ろうかと思うと、前方に外人の女性が。さすが港町の国際性……





と、思いきや、実はこの女性も絵。
だんだん何も信じられなくなってきます。館内にあるお手洗いとかも、偽物なんじゃないかとか。


以上は展示のほんの一部で、他にもかなりたくさんのものがあってゆっくり楽しめます。


個人的にちょっと残念だったのは、テレビで見て楽しみにしていた「傾いた部屋」という展示。
傾いた部屋に入ると脳が混乱し感覚がおかしくなるという趣旨のもので、自分が中立だと思ってるものこそ偏見なんじゃないの?という価値観の倒錯を味わいたかったのですが実際に体験してみると全く混乱せず。
まぁ、話によると固定観念の凝り固まった大人は混乱するけど子供はしない、というものらしいので、まだ頭が柔らかいということで捉えておこうと思います。

多分1時間と少しくらいかけて回ったのかな? 入場料は大人1,000円で映画よりも安く、コストパフォーマンス的には大満足なものだと思います。

at 20:10, K, 徒然

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『ダンス・ダンス・ダンス』




村上春樹 『ダンス・ダンス・ダンス(上・下)』 講談社 2004




ずっと読みたいと思っていたのを、読んだ。
村上ワールド全開というか、非常に「らしい」空気感で、堪能できました。

けっこう村上春樹の熱いものを感じたというか、村上春樹による人生指南のように読めなくもない。
仕事について、愛について、友について、コミュニケーションについて、死について。踊り続けることについて。
本作である種の答えのような何かに到達しているようにすら見えます。

本作に限らないことですが村上春樹なんかを読んでいると物事に対する見方や感じ方が豊かになります。
僕は全然物語というものを(昔から)読まない人間なのでそれが新鮮で、「みんなこんなに良い思いしてたのか。俺にも教えろよ」と思ってしまいました。いや、言われてたんだけど。本読んだほうがいいよと。

細かいことですが、この作品の「僕」の仕事の仕方は、かなり仕事(ビジネス)の本質突いてるんじゃないかなと思いました。
目の前の仕事に対して特別に才能があるとかすごく好きに思えるとかいうことがなくても、仕事を頼まれたら面倒なことでも嫌な顔をせずに(人より少し)丁寧にやって締切までに確実に仕上げる。
それをしっかりやっていて別に高い対価を取るわけではなければ、仕事って回ってくるものなのだろうなと。
いわゆる社会人経験もないので実証のないゆるい仮説ですが。

at 16:19, K, 読書

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雨の中

本日は、学業成績最優秀につきいつも通ってるキャンパスで表彰を受けてきたヽ(・∀・)ノ
2年連続。

今年は何故か入学式にも呼ばれて表彰されたので2回の成果で3回の表彰を受けており、当社比1.5倍のお得感となっております。

たかだか大学でやった試験の点数がよかったというだけのこと、ひいては試験で問われたいくつかの簡単な質問の答えをそのとき頭に入れてて書けたというだけで僕が本質的にダメでクソヤローなことは変わらないのだけど、それでもたまには誉められるのもバランス的には悪くないかな、と思う。

表彰の場では偉い先生方からありがたいお言葉が。

ある先生は「勉強ができるというだけでは意味がなくて、それがなんのためのものなのか、どのように社会に還元していくかを考えてほしい」なるほど。

またある先生は「成績優秀って言っても、最近の学生さんは丸暗記が多い。暗記して良い点とっても、自分の頭で考えられなければ試験以外では全然意味ないよ。成績優秀でも就職できない学生いっぱいいるし」そうですね。

表彰のあと友達二人に会う。副賞は何かあるのかと聞かれたので図書カードだと言うと、いくら分だと口々に聞かれる。みんな、やっぱり金の話が好きだな……。

ゼミの先生にも会ったので報告すると「副賞は図書券だっけ?いくら?」。先生、あなたもですか(^_^;)

しかしまぁ、大学の講義なんか(自分が納得する程度にしっかりやれてさえいれば)別にいいから、とにかく税理士試験頑張らないとなぁ。

ファイト。

at 23:00, K, 学業

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『IFRSに異議あり』

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岩井克人・佐藤孝弘 『IFRSに異議あり』 日本経済新聞出版社 2011




明確なIFRS反対論

世界で普及が進んでおり日本もその導入を議論しているIFRS(国際財務報告基準)。そんなIFRSに意義を唱えている一冊。
新書本ということで記述の分量は少ないですがその割に中身は濃く、主張が論理的かつ明快になされているため読みごたえは十分です。IFRS導入の問題点をざっくり学ぶのにはかなりの良書と言えるでしょう。

そもそもIFRS導入に関する問題は色々言われていますが指摘にはさまざまな次元があります。

・そもそも国際的に統一した基準を定めること自体が無理筋なのか?
・国際的な基準として、IFRSの内容に問題があるのか?
・IFRSには問題はないが、その導入にあたっての政治的な過程に問題があるのか?
・そもそも、なんで導入が規定路線みたいな話になってるんだっけ?

などなど。これらをごっちゃにしたままでは議論は明確になっていきません(まぁ、ごちゃごちゃとする、という状況はIFRS導入には色々と問題が多いことの表れかと思いますが)。

本書では論点を「IFRSの会計基準としての質」に絞り込んだうえで、資産負債アプローチ・公正価値・プリンシプルベースという3つの基礎概念の問題点を指摘しています。

著者のお二人は経歴を拝見するといわゆる専門の「会計学者」ではないようですが、私が判断する限りでは会計についての記述には誤りや理解の甘さも見られず(わざわざ本を書くのだから当然といえば当然ですが)、それぞれの記述はかなり納得させられる内容となっています。

本書の主張は端的に言えばIFRSは理論的にも実務的にも大きな問題を抱えた会計基準であり、アドプション(強制適用)はすべきでなく、選択適用にすべきというもの。根拠に基づいた具体的な提言が多く有意義な書籍です。

個人的には、IFRSの理論的な問題点もさるところながら強制適用とすることによる社会的なコストの大きさについての指摘に大きな重要性を感じました。

自分の頭で考えよう

読んでいて最後の方に思ったのは、会計基準をどうするかというのは会計の中だけの話ではなく、政治でもなく、哲学の問題なのだなということです。

世界的にIFRSの流れが来たからどう、ではなく、まずは「世界はこうあるべきだ」という哲学があって然るべきでしょう。

自分が思い描く世界の在り方を自分の言葉で語って、その上で会計という問題にどう向き合うかが出て来る。単に「会計なんて世界に合わせておけばいい」という結論が出るかもしれませんし、自国の基準を大切にすべきという結論が出るかもしれません。それはどちらでもいいんです。ただ、その思考とIFRSには本質的には関係がないだろうと。

会計基準ひとつとっても『日本辺境論』の話と同じということです。「自分がこう思う」の根拠を外部に求めず理想の世界像をリアリティのある手触りの良い言葉で語るということが全くできていません。その本質的な議論がないままに外部がIFRSと言い始めたから「いつ導入すべきか」「アメリカの様子を見てから決めないと」「コスト・ベネフィットはどうなる」と慌てている。そういうことじゃないでしょう、と傍から見ていると思ってしまいます(考えている人は考えていると思いますけれど少なくとも社会的な合意の類は全くない)。

まずは世界像に対する哲学ありきで、会計もそこからですね。そして、世界像は身銭を切って自分の頭で考え、自分で言葉にしなければならない。それができないうちはいくらIFRSの表面的な議論をしても、状況はずっと同じではないかと思えてしまいます。

at 00:37, K, 読書

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人の気持ちの話

最近、人の気持ちってよくわからないなと思う。

小さい頃よく「相手の気持ちを考えろ」とか「やられるほうの身になってみろ」などと言われた。それは確かに心がけるべき大事なことだと思うし、それができるようになるのが大人になるということの大きな部分を占めるように思う。

しかし一方で、本当に他人の気持ちになんかなれるのかとも思う。正直、道端ですれ違うおじさんが何を考えているのかはさっぱりわからないし、よく話をする友人とでもテレパシーは通じない。

どこかで大きな不幸にあっている人がいれば、彼らの気持ちに寄り添うのは大切だという。なるほど、でもやっぱり他人事は他人事で、それを当人と同じようにリアルに想像することはできない。自分のことですら、将来の気分はわからない。ちょっと時間が経てば気分が変わっていたりする。

逆に捉えれば、気持ちが複数人の間で同化しないというのは自己同一性上重要なことではなかろうか。私の気持ちは、私だけのものである。誰であっても私の気持ちを私と同じように体感することはできない。このことが「わたし」と「あなた」のかけがえのなさを担保しているのではないか。

だから、みだりに「俺の気持ちをわかってくれ」とか「俺はお前の気持ちがわかる」とか言っていいのかは実は疑問だ。わからないに決まってる。だって他人だから。

それを想像力の欠如と非難しても仕方がない。どれほどの想像力をもってしても完全に他人の気持ちがわかることなどない、という事実が実はこの世の中を楽しくしているのだから。

相手と「同じ」気持ちになれることは大切だけど「違う」から面白い、この世界。

at 03:10, K, のはなし

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もう若くない(第一次)

最近時々「もう若くないなぁ」と思う。ちなみに今23歳。

大学4年(現役なら21歳)ではあるけれども、諸事情あって高校に5年通ったから、23歳。卒業のときには24。修士まで行く予定だから、それが終わる頃には26。社会人一年目で27。なんだか随分といい年だ。リアルに想像すると、ちょっと「マジかよ」と思う。

人生80年と考えれば、若いことは若い。これから色々な可能性もあると思う。でも、とりあえず20年ちょっと生きてみた冷静な経験として、そろそろ人間そこまで変わらないよなぁと思えてしまう。

これまでの行動で人生のだいたいの方向性(あるいは自分の考え方とか癖)のようなものは定まってしまっているような気がするし、現実問題として時間は有限だ。

俺がこれから野球選手になることはないし、作曲家になることもない。小学生に対してだったら「君の可能性はほとんど無限に開けているのさ」と言えても、同じことは自分には言えない。

多分、もっと年を重ねてから今を振り返ってみれば「あんなわかったようなことを言っていたけど、あの時はまだまだ全然若くて未熟だったな」と思うのだろう。でも、そんなことを振り返るまで長く生きられるかどうかだってわからないし、とりあえずここまで書いてきたように時間が経つごとに色々な可能性が絞られていき死に近づいているのは事実だ。変に悲観的な認識だと思われてしまうかもしれないけど、ほんと単純に、事実として。

それに、高校生くらいまでなら大きな間違いをしてもやり直していくチャンスは色々あるけど、社会人になろうくらいの時期に道を外すとかなりリアルな問題として後々まで自分の状況に響く(というか面倒臭い)。そういうふうに時間は過ぎている。

そんなこんなで今は“第一次・もう若くない”期なのかなぁと思う。

寿命が物理的な時間で定まっている以上、人生は引き算だ。20歳のときには残り60年生きられたものが、30になれば残り50になる。

お金だって同じ。多くの人は「今月はこれだけバイト頑張ったから結構給料が入る。だから今度好きなことにお金を使おう」と足し算で考えてしまうけれども、ちょっと冷静に考えれば、一生で稼いで使えるだいたいのお金は上限で決まっている(一般的なサラリーマンなら年収400万円×40年で1億6000万円、とか。そこから必要な生活費を除いていき使用する期間に配分したものが使えるお金。家とか車とか子供とか色々入れて計算してみると実際大したお金は残らない)。

足し算でお金が増えてそれを使っているのではなくて、現実的には上限が決まっていて、そこから引き算で消費をしている。総量の限られたパイを食っているに過ぎない。

本だって同じ。年間50冊の本を読むとしたら、40年で2000冊。本で得た知識を人生に役立てたいというなら、役立てる場面が来る前に読まなきゃ意味がない。たとえば40歳までにある程度何かを達成したいとするなら、俺ならあと15年くらいしかない。それまでに読める本の数は800冊くらい。そういう限られた範囲内で考えないとならない。

こうやって言うと、なんだか人生の可能性を限りのあるものとして考えていてつまらない物の見方だと思われてしまうかもしれない。もちろん、人生にはこれからも色々な可能性があって、その可能性の海を主体的に生きていきたいと思う。

ただ一方で、時間や出会いというのは限りのある大切なもので、そのひとつひとつのかけがえのなさをきちんと受け止めて対峙していくということも重要だと思う。ボーっとしてて気付けば年老いてました、っていうだけじゃなくて、その前に何か少しは意識しておこうと。そう言いながらもものすごいボーっと過ごしてるんだけどさ。


「実はもう若くない」 「いやいや、まだまだこれからだ」

このふたつの狭間で過ごしていこう。

at 14:21, K, 考えてみる

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知の技術

最近、目の前の課題の処理に追われてモノをしっかり考えていない気がする。ボーっと生きてしまっている気がする。

そんな中、内田樹のブログ記事に久しぶりに頭をガツンとやられました。
長いですが読む価値ありますよ。ここで内田センセイが語っているロジック、物の見方を自分の言葉で説明できるくらい身に付けることができれば、随分違うかもしれない。


大学における教育-教養とキャリア(内田樹の研究室)



「一国の教育行政をあずかる官庁が、「支配者たちの言語を使えないと馬鹿にされるので、馬鹿にされないように頑張ろう」と言っている。これが奴隷根性であり、属国根性であるということに彼らは気づいていない。「アメリカが覇権的に支配しているステイタス・クオを受け容れる」、「国民国家の責務はいかなる政治的野心も持たず、ひたすら経済競争に勝ち残ることである」、「英語を母語とする人たちから仮に不適切な評価を受けたとしても、それは自己責任である」。これほど屈辱的なステートメントを日本の中央省庁がそのホームページに掲げている。そのことを誰も「屈辱的だ」と指摘しない。このような状態のことを「ローカル」と呼ぶのだろうと僕は思っています。文科省に代表されるこのような属国根性を指して他国の人々は「日本人は国際性がない」と言っている。

「日本の「ガラパゴス化」とか「内向き」というのは、「国際性」という言葉を聞いて、じゃあTOEICのスコアを上げねば、とか他の教科の時間を減らして英語の時間を増やそうとかいう「現状の国際関係のアンフェアネスをまるごと承認してしまう」態度のことです。そこには批評性がかけらもない。今後の国際関係についての見通しもないし、国際社会に向けて特にアナウンスしたいメッセージもない。だから、世界の誰も日本人に向かって「世界はこれからどうなるのでしょう?私たちはこれからどうすればいいんでしょうか?」と訊ねに来ない。それが「国際性がない」ということなんです。」

「教養は知識とは違います。知識の一歩手前の、知性を活性化させるための技術です。この技術のことを「リベラルアーツ」と言います。「知は人をして自由を得さしむ」という聖書の言葉がありますが、「人を自由にする知の技術」、それが教養です。」

「知性は、自分を閉じ込めていた知の檻から逃れ出たいという欲望が起動した時に生まれます。自分自身の「知についての知」と言ってもいいかもしれません。自分が何を知っており、何を知らないのか、何を知らなければならないのかについて俯瞰的に見ることのできる力、それが本来の知性のかたちであり、リベラルアーツ教育はまっすぐにそれをめざしています。」


※上記文中、太字は引用者

at 20:32, K, 考えてみる

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『国境の南、太陽の西』

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村上春樹 『国境の南、太陽の西』 講談社 1995




人が説明のできない理不尽さ、衝動のようなものに突き動かされるところが妙に共感できた。
自分の行動原理なんて実は説明できないし、説明できるか否かが本質的なわけでもないんですよね。

at 13:36, K, 読書

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