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世界線という考え方

最近は映画とかドラマとかで「タイムリープもの」が流行っていることもあって、ネットで「世界線」という言い方を目にすることが多い。

 

自分はこの世界線という発想が好きだ。

 

今この世界のあり方を固定的に考えてこれ以外あり得ないと捉えるよりも、可能な(可能だった)世界が実はいっぱいあって、今ここは様々な要因が折り重なった結果としてたまたま存在しているにすぎないという感覚。

 

そのほうが目の前の事態を深刻に考えなくて済むし、気が楽になるような感じがするから。

 

それに、今の世界の状態を歴史的な必然として理屈付けるのも無理があると思っているので、あり得たたくさんの世界の中でたまたまこの世界線に来た、なんて考え方のほうが世界に関する分析としても的確なような気がする。

 

全ての物事に意味や必然性を結び付けるのはやめて、世界はもっと複雑でカオスで自分には把握しきれないものであることを認めよう。

 

今の自分の生活や、仕事や、交友関係だって、たまたま今は今の状態になっているけど、自分がそもそも違う行動をすれば違う世界もあり得たし、これからだってあり得る。頭を柔らかくしてそんなことを考えるのにも役に立つ発想だと思う。

 

だいたい、コーヒー屋(スターバッ○ス)がわけのわからないカタカナの飲み物を発売したらどこからともなく女達が群がって来て手持ちの電話で撮影して写真SNSに投稿してハッシュタグ付ける世界なんて、必然性のある世界どころかだいぶ端っこの世界線のような気もするし、ね。

at 19:07, K, 考えてみる

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アリを踏んではいけない世界

社会人になってから思ったことだが、老人や、老人までいかなくてもおじさん・おばさん達とは、差別といったものへの意識が大きく異なる。

 

別に自分が何事にも差別意識がない立派な人間だというつもりはないが、学生の頃はいろんな機会で人種差別・性差別はよくない、一人一人が価値のある地球の住民なんだ、といった感じで言われてきたから、自分には少なくとも差別意識は表に出すものではないという認識はある、と思う。

 

その点、老人は平気で「こんなのは簡単な仕事で、女の子がやればいい」とか言ってくる(もちろん人による。納得がいかない人は、そういう傾向を私個人が経験的に感じているという単なる偏った体験談だと思ってほしい)。40歳の男性に「ジェンダーって何?」と真面目に聞かれたこともある。

 

だから、どうしてもビックリしてしまう。憤りを感じるとかいう以前にあまりにもあっけらかんとしているのでビックリする。おそらく、当人には「女性を蔑視したことを言っている」という意識すらないのだろうと思う。

 

もちろん内心は、そんなのはもう古いですよ、個性を見ずにカテゴリーを割り当てて属性を決めつけるのはよくないですよ、とは思う。しかしもはやその当人を責めたところでどうにもならない、という思いに駆られるのも事実だ。

 

これは所詮属人的な人格の問題ではなく、生きてきた時代の流れ・雰囲気に過ぎないのだという感じがする。自分が老人より人格的に優れているから差別意識を告発できるのではない。生きてきた時代が違うというだけなのだ(もちろん、だからといって差別の内容を是認するものではない)。

 

いずれ自分も老人になり、その古すぎるセンスを若者に呆れられる日が来るのだ。そういう話なんだ。

 

こういうことを考えていくと、いつも「アリを踏んではいけない世界」という空想が頭に浮かぶ。

 

男性も、女性も、若者も、老人も、日本人も、アメリカ人も、同じように尊い。生命は尊い。人間だけじゃない。犬や猫だけじゃない。魚も虫も尊い。アリだって殺しちゃいけない。土の上をドスドス歩くなんてもってのほかで、僕たちは道を慎重に確認しながら、アリを踏みつぶさないように、ゆっくりゆっくり歩かなくちゃいけない。

 

仮にこう言われたとして、このような倫理を否定するこれといった道具は持ち合わせていない。こんな世界だって倫理的にはあり得るだろう。

 

多くの人は「言い始めたらそれはそうかもしれないけど、そこまで細かいことを言ってもね……」と思うだろう。多分今の老人にとっての女性の人権の問題は、そういう種類の問題なのだろうと思う。「アリを踏んではいけない、尊い生命なのだから」と言われて、理屈はわかるとしても切迫した問題にはどうも感じられない。はいはい、とつい流してしまう。それだけ見ている世界観が違うのだと思う。というよりそうじゃなきゃ説明がつかない。彼らはアリを踏んではいけない世界の住民なのだ。アリを踏むな、と何故だかしつこく言われるけれど、なんでそんな細かいことをうるさく言われるのか、どうもピンと来ないのだ。

 

そして僕らもいずれアリを踏んではいけない世界の住民になり、遠慮なくアリを踏みつける暴力性や非倫理性を若者に痛烈に批判され、呆れられる日が来る。その日のためにできることは、少しでもマシな対応ができるよう、想像を働かせて頭を柔らかくしておくことだけだ。

 

僕らは知らないうちにアリを踏みつけているのかもしれない。それはとってもいけないことなのかもしれない。そう遠くない未来にアリを踏みつけてはいけない世界がやってくるのかもしれない。

 

 

※ちなみに何故「アリを踏んではいけない世界」なのかというと、大学のときに受けた異文化理解の講義でタイのお坊さんがアリ一匹踏みつぶさないようにホウキで地面を掃きながらゆっくり歩いている映像を見たから。輪廻転生を信じている彼らからすると、目の前を歩くアリは自分の祖先の生まれ変わりの姿かもしれないからだという。「アリを踏んではいけない世界」に生きている人は現実に存在するのだ。

at 18:42, K, 考えてみる

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ひとつひとつがあなたになる

今更ながら絢香の「にじいろ」という曲を知って、いい曲だなぁと思っている。

全体としてはやや漠然とした歌詞かなと思うけど、出てくるフレーズのひとつの

「ひとつひとつがあなたになる」

というのがすごく好き。

「人生良いことも悪いことも、なんでもその後の糧になるものだ」とか「なんでも前向きに捉えて自分の力にしていかないと」といった人生訓を唱えられるとしんどくなってしまう。

でも、生きている中のひとつひとつの物事が自分を形作っていること自体は間違いない。そのことを素直に言ってもえると、素直にそうだなぁと思えるし、そうだからこそ自分を形作るひとつひとつを大切にしようと自然に思える。

安易に何かを良いとか悪いとか判断したり、すぐ分析して評価してそれを自分が肯定するか否定するか決めるんじゃなくて、生きていて出会う色んな物事をまずはそっと大切に手の中に入れて眺めてみる。そんな姿勢っていいですよね。

at 19:20, K, 徒然

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私の仕事観と始原の経済

こないだ、友達とお酒を飲みながら、うかつにも「宝くじ当たったらどうする」トークをしてしまった。

 

そのときの設定は7億円だったので、7億円当たったらどうする、だ。

 

自分は何よりもまず、そしたらもう働かない、と言った。2〜3億だったらちょっと怖いけど、7億あったらもう大丈夫だから辞めると。

 

それに対して、意外と賛同者がいなかった。どうもみんなに言わせると「仕事をしてなかったら人間として堕落してしまう」とか「仕事で何かを学べるのは楽しい」というようなことらしい。

 

たしかに、この手の話題でそういうことは言われがちだ。自分は他の機会でも「そもそも仕事を通じて人の役に立つ喜びが本質」とか「自己実現が…」などいろいろなことを言われてきた。

 

あるいは今見ているドラマでも、主人公の女子大生が「私にしかできない仕事ってなにかな」「人を幸せにする仕事がしたいの」というようなことを言っている。

 

結論から言うと、こういうことを言ってくる輩はだいたいクソッタレだと思っている。

 

「仕事をしないと堕落する」と言う人には「仕事をしなければいけないと思うから堕落すると困るのであって、仕事をしなくていいのであれば堕落しても何の問題もない」と言いたいし、「仕事で何かを学べる」と言ってくる人には「本でも読めばいくらでも新しいことが学べる」と言いたいし、「人の役に立つ喜び」と言ってくる輩には「どうぞボランティア活動にでも精を出せばいいじゃないですか」と言いたい。

 

もちろん、宝くじが当たった後に働こうが働くまいが各人の自由なので、その点について自分がどうこう言おうというつもりはないのだが、僕が腹が立つのは、そういう人たちがどこかで「働くことはちゃんとしていること」とか「働くことを前向きに捉える自分は人間的に立派で成熟している」という前提を持っていることだ。そして、そんなのは近代以降社会構築された方便だと思うからだ。

 

自分は、仕事とはなんだろうと考えるとき、始原の狩猟採集あるいは農耕牧畜にさかのぼってシンプルに考えるようにしている。

 

要するに昔は自給自足で、自分で畑を耕して、食料を収穫して、生きていたはずだ。別にそこには「仕事」という観念すらなかった(必要なかった)かもしれない。生きていければそれでよくて、そのために食料が必要で、そのために農耕があるにすぎない。

 

そのモデル(図式)がもう少し複雑になると、牛を育てる人、米を育てる人、野菜を育てる人……と徐々に専門家し、それらを売るお店を営む人、人々の住む家を建てることに専念する人、人々が移動できるように運送を専門とする人、お金の融通をする人……といろいろな職業が派生してくるのだろう。

 

歴史的な経緯とか順序とかは、詳しく突っ込まれるとそうじゃないのかもしれないけど、要するに生きることがあって、そのために衣食住が必要で、それを満たす作業が仕事で、だんだん分業して専門家してきたのが今日の職業なのだろう、という基本が確認できればいい。自分にとって仕事とは、本質的には、ただそれだけのものだ。生きるために畑を耕す作業を、便宜上いろいろな役割に分けてやっているだけだ。

 

で、それのどこに「自己実現」やら「人を幸せにする」だのが入ってくるのだろう? どうしてそんな観念が必要になるのだろう? いいじゃない、別に堕落しても、仕事を通じて自分を高めなくても、人の役に立たなくても、生きてるんだから。

 

もちろん「私はアンパ○マンよりバイキ○マンの方が好き」というような純粋な物事の好みの意味で「私は仕事を通じて人の役に立ちたい」とか言ってくるなら、それはご自由にとしか言いようがない。誰かが否定したり肯定したりする筋合いの話ではない。ただ、それを仕事の本質のように語ってきたり、そう理解することが人間として成熟であるかのように語るのは勘違いだと思う。

 

自分からすれば、仕事で自己実現とか、人を幸せにする仕事をとか、そんなのは今のように職業を持って生活するのが当たり前になると同時に社会に構築されてきた方便に過ぎず、この世界の本質でもなんでもない。

 

もちろん、方便であることは全く構わない。方便は有用だ。でも、繰り返すけれど、若者を効率よく就労に仕向けるあるいは転職会社のマーケティングのために語られる方便を本質かのように捉えるのは社会に構築された価値観を批判的に検討することなく隷属している者のやることだし、「宝くじ当たったら仕事しないってそれ(笑) 人間としてどうなの?(笑)」と垂れ流す人は、残念ながら自身が社会に恣意的に構築された価値観に無批判で隷属しており、かつそのことに無自覚であると宣伝しているように思えてしまう。

 

もっとも、自分の仕事観の中にも「自己実現」のような観念が全く登場しないわけではない。なにしろ現在がこういう世の中である以上、仕事を選ぶにあたって、ある程度は自分が好きなことを選んだほうがいいと思う。いかにどんな仕事も本質を辿れば田植えであるとしても、実際日々やることは田植えではないので、なんとなく自分が好きなこと、自分が向いてることをやったほうが幸せになれると思う。言い方を換えれば、自分は「仕事で自己実現!」的な言葉をそのような意味で捉えている。

 

でもそれは逆から言えば、米を食えなければ意味がないということでもある。「自分が本当にやりたいこと(仕事)はなんなのだろうか」なんて悩みながらいつまでも米が食えない状況にいる人に対してはちょっと疑問を持ってしまう。だって自分の経済モデルでは、仕事とは単なる食料の調達(withいろいろな役割分担)なのであって、「自分が本当にやりたいことをやる」ことではないからだ。悩み自体がお門違いだ、と思う。

 

始原の社会において宝くじ7億円が当たるというのは永遠に食料が自動供給されるという事態に等しいと思うので、それに対してはもうやることがない。それなのに謎の「仕事の本質論」を掲げてくる人が自分には理解できない。むしろ自ら問題を複雑にしすぎている。自分はそういうことを考えるとき、農耕牧畜レベルの始原の経済にさかのぼって考えることで問題を簡単にするようにしている。そんなお話でした。

 

ちなみに冒頭の宝くじ7億円当たったらについては、仕事やるやらないの問題を別にして、何かやりたいことがないか考えてみた。

自分が言ったのは「完全に自分好みの図書館を作って日がな一日本を読み、そのままそこで寝る」というもの。

ちょっとファンタジーで夢があるでしょ。

at 23:37, K, 考えてみる

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私の2016年

年末にしておけよ、と言われてしまうような一年の振り返りを、今、2017年の1月4日夜にしてみようと思う。
明日が仕事始めで、どこかでするとすればもう今日しかない。

そしてまた何故いまさら、更新停止状態のこのブログにその内容を書こうと思ったのかは自分でもよくわからない。
ただパソコンの中の「メモ帳」に保存するだけよりは、誰かに見てもらっているかもしれないという感じが心地いいし、Twitterに投稿してフォロワーのこの人とこの人に見られるというよりも「誰かが見ているかもしれないし、見ていないかもしれない」という感じがちょうどいいのかもしれない(多分、140字には長すぎる内容になるだろうし)。

さて。

2016年は自分の中で「小さなチャレンジ、小さなプラス」というお題目でやってみた一年だった。
仕事も2年目でまだまだ未熟。社会人としてもペースが確立できておらず、まだまだ具体的に何かを達成するという段階ではない。でも、そのような中でも何かチャレンジしてみて何か自分なりのプラスをつかんでいこうと頑張ることに意味がある。試行錯誤でいい。そういう意識だった。

仕事としてはまぁスローペースの成長ながら順当に、一年目はわからなかったことが徐々にわかるようになり、簡単な会社であれば自分で記帳から決算までできるようになり、税務調査にも立ち会わせてもらい、オーストラリア人のお客さんの対応を英語でし、年の後半に入ってきた後輩(年上)にも仕事を教えた。

何をするにも先輩に聞いてやっている自分が仕事を教えるなんてそんなことできるのかという感じだったけど、やってみると、意外と聞かれたことには論理的に答えることができて、人間いつの間にか成長しているものだな、と思った。

仕事以外では英会話教室に通い始めたり、友達と勉強会をやったり、セミナーに参加したり、専門家が集まる勉強会?のようなものに顔を出したり、家でチマチマ勉強したり、というふうにほんとにチマチマコツコツ少しずつチャレンジした。

そして自分の内向性を克服するためにも今年は人と関わるようにしようと頑張ってみた。英会話教室も、英語の勉強自体もさることながら、そっちにも力を入れた。例えばレッスンの終わりには、一緒に受けていた人に「難しかったですねー(笑)」と話しかけてみる。そういうことをあえて自分に課してみた。やってみると、それはそれで楽しかったりするもので、自分は意外と人懐っこい性格なのではないか、と自分で思ったりもした。

飲みの誘いなんかもできるだけ断らず行くようにした。飲み代が少しかかるけれど、やはり人と関わるということは何事にも代えがたいし、経験にもなる。あと、今は学生を離れたばかりで学生自体の仲間との距離が(心理的にも物理的にも)近く、そういうことができるのは今のうちぐらいだと思ったから彼らとの飲みはそういう意味で尊く感じたというのもある。これから各々が結婚をして子供を持っていけば、こうはいかないだろう。行って後悔することも多かったが、それはそれでいい。

あと英会話教室でもパーティーやらを定期的に企画していて、それにも積極的に参加した。そこで知り合った人と私的に飲み会を開いたりもして、楽しかった。自分にもこういうことが一応できるのだな、という、なんというか新鮮さもあった。

英語に関してはこれからの話として、どれだけ本気でやっていこうか迷っている。学生時代から英語は「平均的な周囲の人よりは少し得意」という中途半端なステータスで、前々から「本気でやってみればある程度身になるのではないか」という予想と言うか期待みたいなものが自分の中にくすぶっていた。人生で一度はレッスンを受けたりしてやってみたいという気持ちがあって、2016年にとうとうそれを実現したという形だ。

友達との勉強会も前々からやりたかったことで、楽しかった。法を語っているときの自分が自分でもはっきりわかるくらい活き活きしていて、友達からは引かれたけど、やはりこれはこれで自分の長所なのかなと思った。同じ職業の人でもみんながみんな同じようにこれを楽しむわけではないし。ただ、これをうまく自分の将来の収入や地位に繋げていくことができるかどうかは難しい。

論文を書いてみようかな、という気持ちもあるが、これもなかなか大変な話だ。成果が出せるかわからない。でも、いずれにせよいつかは、という気持ちはずっとどこかにある。それだったら、2017年の目標にしてみてもいいかもしれない。

人とのつながりで言えば、これまでにあまり接点がなかったが興味があった職場の人と飲みに行けたりもした。これは一種の社内政治で、その人と一緒に仕事ができたら自分の勉強になりそうだなと思っている。そんなにすぐに効果は出ていないけれど、実際ある程度仕事を振ってもらえることがあって、これまでに見たことがない世界を見ることができた。収穫だった。

あと、会社の外の人で、提携関係にあるような人たちとも飲む機会を得たりした。こういうのは、なんでも「飲みに行きましょうよ」と言ってみるものだ。実現したり実現しなかったりするが、それはそれでいいのだ。

ついでに思いつく小さなプラスを言うと、スニーカーを買ってウォーキングをしてみた。慢性的な運動不足・虚弱体質である自分にとって運動は(生死に関わる)大きな課題で、なんとかしようと思いつつもできていなかった。
2016年は何故か5月頃に急に「あったかくなってきて気持ちがいいなぁ。ウォーキングでもしたいなぁ」と思い立って、週末に1時間ほど歩いたりした。毎朝とかじゃないからすごく微々たる運動だけど、やらないよりはいい。まさに小さなプラスだ。

今まではウォーキングというもの自体がどうしても退屈で、健康のためにはやりたいけどどうにもやる気にならないという状態だった。それに対して今年は「体を動かすことがすごく気持ちがいい」という感覚を得ることができた。これが収穫だ。結局真夏に入って暑さのあまり歩こうにもすぐギブアップする状態になり、ウォーキングというもの自体が遠のいてしまって今に至るが、そういう感覚を得ることができたので今年もまた機会を見つけてやっていこうと思える。

プライベート関係で言うと、奥さんと遠くに外出できたのもよかった。初めて奥さんのおじいちゃんおばあちゃんに会うこともできたし、沖縄に夫婦で旅行にも行った。これまではそういうことができていなかったので、奥さんが喜んでくれたのならよかったなかと思う。

あと、エンタメ関係も充実していた感じがする一年だった。というのは年初にドラマの「いつ恋」にドハマりして同じ話を3回も5回も見て毎週楽しみにしていたし、逆に年末には「逃げ恥」にハマって毎週楽しみにしていた。通勤電車で「恋」をエンドレスリピートした。映画では君の名はがすごくよかったし、シンゴジラもなかなかよかった。海外ドラマで英語を勉強する目的でNetflix(定額動画見放題サービス)に契約したのだけどこれがまたよくて、英語の勉強なんて関係なく疲れた休日にアニメを見まくったりしている。とてもいい商品(サービス)だと思う。

さらにプライベートなことで言うと、春頃に奥さんと話し合いになり、お出かけとかそういうことが少ないということで奥さんはかなり苦しんでいるようだった。ちょうどその頃は業種的に忙しい時期だった(土曜の出勤が4週続いて、そうなると日曜はどうしても休みたい)という言い訳もあるが、多少なり彼女の不満を解消できるよう、それからは一緒に外出する機会が増えるよう考えた。

自分はそもそも外出が別に好きではない。もちろん全くしたくないということはないし気分次第だけど、月〜金で仕事をして土日は家で休みたいというのが基本的な気持ちだし、勉強もしたいとなると家にいるのが自然になる。そのときに奥さんが一緒に家にいて、何気ない会話をできれば、それで満足な週末になる。イベントごとをしていないからといってその週末に輝きがないとか、夫婦として幸せでないとかは思わない(奥さんがそう考えていると言っているのではない)。家で一緒にボーっとできるだけでも、尊いことだと思う。

ただそれでは奥さんが思う外出頻度の基準と著しい乖離ができてしまうらしい。ということで、自分としてはある程度一生懸命に、ときにはシンプルに映画に行き、ときにはこれまで行ったことがない場所を調べて提案してみたりした。それで彼女が満足したのかはわからない。ただ、自分としてみれば、幾分極端な言い方だけれども、平日は行きたくもない仕事に行き、休日も行きたくもない外出を必死に考えてする、という状態になった。もちろん嫌々やっても仕方がないので自分も楽しむように努力した。それでも、そうもいかない日もあった。

これに関して、ひどい夫だと非難されるならそれはもうしょうがないという気持ちもある。奥さんもそうだろうが、こちらも自分なりに、自分の過ごしたい時間を我慢して相手の希望に沿うように行動を変えている。それでダメならしょうがない。今年はもっと頑張っていかなければと思うが、それで奥さんが満足するのかどうなのかは、神のみぞ知る。

呆れるくらい長いブログだ。誰が読むのだ。やっとこさ、今年の目標に話を進めよう。

今年はキャリア的にもひとつの区切りとなる年だし、仕事で一人前になるために頑張っていかなければならない。堅実に言うなら、ちゃんとした職業人になるための勉強をきっちりやるのは一番大事だろう。なんというか、自分なりにキッチリ仕事ができるぞという自信と言うか手応えみたいなものが欲しい。実力が欲しい。実力が全てを解決する。

ただ仕事を頑張るというだけでは面白くないのでもうちょっと欲張っていくと、やりたいことは色々ある。論文を書きたいし、英語もやりたいし、宅建とか何かしら資格・検定をやりたいという気持ちもあるし、運動もしたいし、もしできたら勉強じゃない本も読んでみたい。

論文は計画的に勉強していかないと書けないだろう。そのための下準備は少しずつ、じわじわやっているが、今年どこまでいけるかわからない。そこを頑張るなら英語は犠牲にせざるを得ないだろう。逆に英語を本気でやってみるというのはひとつの手だと思うが、今はなんとなくやる気が出なくてどこまでできるかわからない。本業を頑張る年だから英語にかまけるのもどうかと思うし。ただ、職業的に英語のニーズというのは確実にあると思っていて、ある程度モノにできれば大きいと思う。なんとも言えないところだ。

宅建をやりたいのは不動産とか民法に関する理解を深めたいから。不動産はカネになる、と思う。あと保険のことも勉強したい。金持ちにありがちな話題、不動産と保険。富裕層のお客さんと付き合うためにはこの辺ついていけないとダメなのかなと思う。

運動は適度にウォーキングをやるだけでなくて、ダンベルとかもやって全身を鍛えていきたい。近年冬を越すのがギリギリになってきているので、筋肉をつけて乗り越えることができるようにしていきたい。

本は仕事に関するものも読みたいが、いわゆる教養を鍛えるような、名作文学や哲学書も読みたいと思っている。ただ、これはもう少し未来のお楽しみになるかもしれない。あと、なぜか学生時代によく読んでいたビジネス系の本とかを、実際に社会人になった今改めて読んで吸収してみたいと思う。この辺は優先順位は低いかな。

プライベート的な目標としては奥さんが楽しめるようやっていければと思うし、前提としてこれまでよりもっとちゃんと家事をやらなきゃなと思う。なんていうか、大人だし。生活のことをちゃんとやろう。

全体として言うと、ちょっと何かを達成したいし、実力を得たという実感が欲しい。達成感や手応えがほしい。2017年中にそれを得るのは難しいかもしれないが、そのための足がかりを得ていかなければいけない年のような気がする。

書きたいことは色々あるが、疲れたので、この辺で。唐突に終わります。

余談。キャリア的に区切りということで給料が上がると言われていたが、提示された昇給額が耳を疑うくらい少なくて、ゴネてみた。ゴネたらけっこー上がった。このような故事から我が家では「ゴネるは恥だが役に立つ」という名言が生まれた。

at 20:00, K, 徒然

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DNAの話

小学生か中学生の頃、新聞を読んでいたら「ウニのDNAの7割は人間と同じであることがわかった」というような記事が載っていた。

ウニって。あのウニだぞ。

ものすごいツンツンしていて、でも中身はとろっとしていて、食べるとうまい。およそ人間とは似ても似つかない。

なのにDNAが7割同じ、とな?

理系の知識がないから「DNAの7割が同じ」ということの意味は正直よくわからなかったのだけれど、なんだか生命って不思議だなぁ、という気持ちになった。

何とも言えない不思議な気持ちが残っていたので、母と顔を合わせたときに「人間とウニのDNAって7割は同じらしいよ、不思議だね」と言った。

姉と顔を合わせたときも、「人間とウニのDNAって7割は同じらしいよ、不思議だね」と言った。

その後、母と姉が顔を合わせたとき、母は姉に「人間とウニのDNAって7割は同じらしいよ、生命ってなんなんだろうね」と言った。

姉は「その話はもう弟から聞いた」と言った。

at 11:15, K, のはなし

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レット・イット・ビーの話

あれは小学校6年生の頃。

僕は読んでいた漫画の中で渋いオジサンがビートルズの「レット・イット・ビー」を聴くのを真似て、CDを買って得意気になって聴いていた。

そう、洋楽を聴くのがカッコイイという幻想に陥った状況、中二病というやつだ。

漫画には「レット・イット・ビー」というのは「なるようになる」という意味で、それが渋いオジサンの人生訓だと書いてあった。なるほど、カッコイイ。

得意気になった僕は、当然のように学校でその知識を披歴した。

「最近ビートルズ聴いてるんだけどさ。レット・イット・ビーってどういう意味か知ってる? なるようになるって意味なんだよ」

シュっとした顔で爽やかなイケメンの岸君も、僕の話を興味深く聞いてくれた。

そして、時は小学校6年生。そんなこととは無関係に、卒業アルバムの制作が進んでいた。

卒業アルバムには、将来の夢の作文を載せたり、いくつかやることがあったけど、見開きでクラスのみんなが自分のポリシーというか、モットーみたいなものを一言ずつ書く部分があった。

僕は何を書くべきか決めかねていて、記入用紙をもてあそびながら、ふと岸君に「なんて書いて出した?」と聞いた。

岸君は「なせばなる、レット・イット・ビーさ」と爽やかな笑顔で言った。

ごめん、違うよ、岸君。

 

at 17:59, K, のはなし

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ダメ人間でゴメンナサイ


社会人にならなきゃいけないと思うと本当に死にたい。家は貧乏、体も弱く劣等感を感じる


具体的な状況が同じというわけではないけど、投稿者の言いたいニュアンスはよくわかる。

自分もかつて引きこもりで、おそらく周囲の人より身体が弱くて、同じ活動をするのでも他人よりしんどさを感じていると思う。

でも、それは別に障害というものではないし、なかなか他人に理解されない。

「授業の後××行って遊んで、そのあと飲み会いこーぜ!」「今度の休み○○にある山登ろうぜ!」とか言われても、もう本当に、ただ純粋に、しんどい。で、素直にそう行って誘いを断ったりしていると、何故だか「気力がない」「めんどくさがり」みたいな扱いになっていく。

そうじゃないんだ。ただ本当にしんどいんだよ。

ただ、体力のなさを訴えたところで、世の中ではなんだかやけに説教くさい反応が返ってくる。



(1)「みんな何かしらの困難をかかえて頑張って生きている」

曰く、持病みたいなものであれ、精神的なものであれ、家庭環境的なものであれ、言い出せば誰しも何かしら困難を抱えているものだ。だけどそれを言い訳にして物事をあきめたりネガティブなことを言っても仕方ないのであって、それをどう克服して生きていくかんだ、頑張ろうぜ。

この手のお話は、基本的に正論だ。実際、ある意味ではそういうものだと思う。でも、「結局大変さはみんな同じ」とか言われたら、ほんとかよと思う。「程度の問題」を無視していると思う。

そりゃ、何かしら探せば、誰にでも困難はあるだろう。でも、それがどのくらい生きる上でのマイナスになっているか、その程度はそれぞれ違う。5のマイナスを抱えている人と50のマイナスを抱えている人がいるときに、「誰にでも困難はあるのだから」と言うことは、マイナス50の人が愚痴を漏らすことに対して何らの反論にも説得にもなっていないと思う。

周りの人間を見ていると、どうしても自分よりも体力があるし、それによって(相対的には)人生を充実させる難易度が低いように思える。普通の人なら一日にAとBをこなせるところ、自分はAをこなすだけで疲れ切っている。Bまでこなして他の人と同じレベルに立つには、困難を背負わされていると思う。

腕がないとか目が見えないとかのはっきりした障害があるわけじゃなくて頑張れば克服できるのだから、と言われればそれはそうだ。でも、だから何だ?とも思う。それは「不利である」ことに対して何らの慰めにもならない。



(2)世の中にはもっと大変な人もいる。

極端に言えば、南の国の子供たちは食べる物にも困っているんだぞとか、大学に行かせてもらえるだけで恵まれた環境だとか。これも「その通り」だけど「だからなんだよ」と思う。

自分の周囲の人が60〜80のレベルで恵まれているときに自分が50であるとして、「オマエは20の人に比べるとものすごく恵まれている」と。だからなんなんだよ?

全く同様に「世の中にはもっと恵まれている人もいる」という話もできるのであって、そのことが「私は周囲の平均的な水準に比べて知力・体力に劣るので生きづらいです」という話に何か影響を与えるものであるとは別に思えない。でも、何故かそういう言い方をすると「甘えだ」とか「言い訳だ」とか思われる空気がつらい。




…………でも、結局、認められないのはわかっている。こんなことを書いたところで、「気力のない甘えん坊が自分の情けなさに言い訳しているだけ。周りのみんなはもっと頑張っているんだ」と思われるだけ。そもそも、もしかしたら実際にそうなのかもしれないというのは自分でも思う。だから言える機会もない。

でも、そもそも体力がみんな同じなんてことはあり得ないんであって、その中で自分は低いほうだと思うんです。必ずしも無気力なせいだけじゃなくて、純粋に身体に恵まれてないからしんどいんです。と、誰も見てないようなブログでくらいつぶやきたいときもある。それだけの話。

「嘆く前に、もっと運動とかしてみたら?」って、どうして他の人がそんな苦労をしていない中で、自分がそれを背負ってやっとスタートラインなのか。その時点で不利であることをすらただ嘆くことが受け入れられないのか。

わかってますよ。ただ愚痴りたいだけ。誰も「そうだねぇ。大変だねぇ」とは言ってくれないし、結局のところ、自分もそう言われて「かわいそうな人」扱いされたいわけでもない。また明日からやりますから。結局、頑張りますから。そうするしかないですから。でもなんか世の中怖いしみんな厳しいよ。たまには素直にそう言いたいよ。

 

at 22:16, K, 考えてみる

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『現代法学入門〔第4版〕』



伊藤 正己・加藤一郎編『現代法学入門〔第4版〕』(有斐閣2005)




オーソドックスな法学教科書。
法とは何かという基礎から法の解釈適用、法の体系、各種法分野の概要や法制史などざっくりと広く網羅しています。

全体的にポイントをおさえた簡潔な説明という感じで、特に第1章、第2章のあたりは法学初学者がおさえておくべきエッセンスが詰まっている感じがします。

末川編『法学入門』とは出版レーベルも内容も値段も分量も被っていますが、どちらかといえば『法学入門』は法学を専門としない人が一般教養として、読み物として法学を自習するのに向いていて、『現代法学入門』はさらに法学を切り込んで学んでいくためのベースとして使われるべきテキスト、という印象があります。

ちなみに本書に「裁判官は、まず、事件の具体的事実関係のなかから、それに即した具体的に妥当な結論をみいだそうと務め、つぎに、そこから得られた結論を、法規からの理由づけによって正当化しようとする。(…)しかし、それを判決文にあらわすときには、あたかも法規から自動的ないしは必然的にその結論が導き出されたかのように、三段論法的な構成で記述されるのがふつうである(68-69頁)」という記述があって、そういうもんなのか、それをぶっちゃけていいのか、とちょっと新鮮でした。

at 21:21, K, 読書

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『「税務判例」を読もう! ―判決文から身につくプロの法律文章読解力』



木山泰嗣 『「税務判例」を読もう! ―判決文から身につくプロの法律文章読解力』 ぎょうせい 2014




とりあえず、税法を勉強している大学院生はつべこべ言わずに全員読めと言いたくなる良書。

判決文は法的三段論法で書かれている、狭い意味の「判例」とは最高裁の判決理由の部分だ、通達に法源性はない、解釈論で勝負しよう……等々、きちんと法律的な観点で判決を理解し読み解くために高い学費を払って大学院で叩き込まれるような重要な内容が惜しげもなくバンバン書かれていて非常に役に立ちます。

個人的に新たに勉強になったのは、事実認定は当事者主義(弁論主義)だけど、法解釈は裁判所の専権事項で、当事者が主張していないものも持ち出していいということ。そうだったのか。

そして忘れてはならないのが、 裁判は法解釈をするために行われるのではなく、個別の紛争を解決するために行われるのだという点。判例を都合良く「使う」ことばかり考えているとこのあたりを忘れてしまいそうになります。また判決文に載る「当事者の主張」は裁判所が要約したものであるため、そこに書かれていない主張でも当事者はしっかり行っている場合もあること。安易に「もっとこういう主張を押し出していれば勝てたのでは」というのはよくないですね。

ですます調で、全体的に書きぶりがすごくわかりやすいのでスラッスラ読めます。表紙もポップな感じですが、決して内容が浅い本とバカにはできないですよ。本書に書かれているようなことをみんな理解できているかというと、そうでもないと思います。

難しい言葉で書かれた本を買って結局読めずに終わる、あるいはわかったようなわからないような気分になって終わるよりは、ですます調のくだけた本だからとバカにしないで本書をしっかり読むほうがよっぽど有意義。

at 07:51, K, 読書

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