大学3年の終わり

本日ひとつ試験を受けて、今学期のスケジュールがすべて終わった。

個人的にはまだ近いうちに「やらなきゃならない嫌なこと」はあるし(歯医者とか歯医者とか歯医者とか)大学の勉強が終われば税理士試験の勉強に本腰を入れるだけの話なのであまり解放感というものはない。

ただ、さすがに3年も同じ場所に通えば飽きるのか、大学な好きな自分にしては最近ちょっと大学の勉強が鬱陶しく感じるときもあったので無事終われたことについてはとりあえず軽くスッキリはしている。単位の取得については、まぁ大丈夫だろう。

というわけで来週からは歯医者、TOEIC、税理士講座実力テスト、ちょっと間空けてITパスポート、と色々あるけど、楽しみながら頑張ろう。

大学の3年間というのは、長いような気もするし短いような気もする。時間が経ったという実感はないけれど、入学当時にやっていた授業のことを思い出すと「そんなこともあったなぁ」と、なんだか他人事のように感じる。発表で声が震えたり、体力測定のマラソンでビリになったり、懐かしい(ダメな思い出ばっかりだ)。卒業するんでもないのにこんなに振り返ってもしょうがないけど。

at 14:34, K, 学業

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『偶然とは何か その積極的意味』


竹内啓 『偶然とは何か その積極的意味』 岩波書店 2010



偶然の包括的思索

本書の内容はズバリ書名の通りで、偶然とは何か。
その言葉上の定義から始まり、哲学的な意味、数理統計的な意味、社会における意味、などさまざまな側面から「偶然」の正体とその意味を論じています。
新書本ということもありひとつひとつの記述は簡潔すぎるきらいはありますが、本質的に切り込んでいるので面白いです。

確率論の本質的な意味

偶然とは何かということを踏まえた上で確率論に踏み込み、そこから「大数の法則」や「中心極限定理」あるいは統計的仮説検定などを説明しているところもあり、これはなかなかいいと思いました。統計学の教科書を読んでしまうといきなり数式の嵐で馴染みにくいですが、その本質的な意味から考えるのは有意義だなと。まぁ、これについてそこまで丁寧に書いているわけではないですが(そういう目的の本ではないですから)、確立概念に対する頻度説や主観確率なども紹介されています。

意思決定理論の限界

深く納得したのは、いわゆる確率論に立脚する意思決定の理論・手法についての記述。著者は「不確実性の下における意思決定の理論」を用いたとしても偶然に影響されることを避けられるわけではないのだ、と説きます。

例えば結果に不確実性がある行動、投資などを考えてみます。ある案件に投資をして得られる利益は50%の確率で100万円、40%の確率で300万円、10%の確率で-1000万円だとすると、得られる利益の期待値は70万円でありプラスですから投資をすることは数理的には「合理的」です(単純な金額の変わりに「効用」を用いても議論の中身は同じ)。このとき、結果の不確実性を織り込んだ上で合理的な選択をすることができているように見えます。

しかし、現実に起きる行動は70万円が確実に手に入るのではなく、あくまでも各種の結果が確率的に(いわば偶然に)決まるわけです。10%の確率で1000万円の損失を被った場合には、それだけの損失を出した上での資金繰りでなんとか事業を回していかなければならない、という事態に対処しなければなりません。選択をする段階での意思決定は合理的だったのだ、などと言っても意味がありません。

この意味で「不確実性の下における意思決定の理論」は「偶然の影響」を排除したわけではないのです。もちろん、そもそもそんなにナイーブに確率論を信奉して扱っている人はいないでしょう。それでも意思決定の理論があれば不確実性を無いものとして扱えるような勘違いが、どこかにあるような気がします。

社会・経済の中でも偶然は極めて重要な役割を果たす

人は偶然に左右されるものだ、という思索は、経済のあるべき姿というものにも関わってきます。例えば、誰かが恵まれた境遇に生まれたり、別の誰かが粗悪な環境に生まれたりするのは、偶然なのではないか。だとしたら同義的に、恵まれた者は恵まれない者を救済すべきではないか。

安易な自己責任論は、偶然による幸・不幸を各人の責任に帰してしまう点で問題があります。どこか特定の地域に自然災害があれば、それは不運によるものであり、「たまたま」不運に見舞われなかった人が援助を申し出るのは自然なことでしょう。実は自然災害だけでなくて多くの経済的な格差の要因にはそういう面があるのではないか(なんでもかんでも偶然だと言って免責するのも問題ですけど)。著者が指摘するのは、運・不運は避けることができないけれども、それによる幸・不幸は分かち合うことができるということです。この考え方は偶然というものと主体的に関わっていく上で極めて重要でしょう。

また、パンドラの箱の話ではないですが、やはり偶然による不確実な部分があるからこそ人は未来に希望を抱いたり、待ち受ける絶望に打ちのめされずに済んだりするのでしょう。そうすると本当に偶然というのは世界を構成する本質的な要素なのだなと思います。

at 01:42, K, 読書

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寒い中試験ふたつ

この冬で今のとこ一番寒かったですね、今日。

今日は大学で試験をふたつ受けてきました。会社法とロジスティクス論。

会社法はオリンパスや大王製紙の問題でホットなトピック。ただ今回の試験はただの条文暗記みたいなつまらないもの。法学的な思考って身に付けないとなぁ。なんか特殊ですよね、あの感じ。すごく論理的なようで、でも案外物事の定義は宙ぶらりんだったり、はぐらかしているような感じもして。

ロジスティクス論は対照的に(?)、数理的な思考で在庫管理などの問題に立ち向かう内容。普段ぐだぐだと文章で論じている問題をすっきり数式にされるとすごく快感です。

そういえばテスト終わってから大学の中の書店にぷらっと入ったら「理系的思考術」という本を見かけて、欲しくなってしまいました。でも、こういう「エセ理系」みたいな本はわりと何度も買ってるからなぁ。同じ系統のを重ねても深化(進化)していかない気がする。それよりも数学や物理学の教科書的な勉強を、脳に汗をかかせながらやらないと結局は頭良くならないんだろうな。

試験の出来は、んーどうなんでしょうか。会社法は多分いけたけど、ロジスティクスはうまくいったのか採点されてみないとよくわからないかも。ちゃんと勉強していたし多分できてるけど、どっかで計算間違えてたりしそうで恐い。

あまりに寒かったしお腹空いていたので、帰りは日高屋に寄って温玉旨辛ラーメン。うぅ、やっぱりうまい。体が温まります。

at 01:03, K, 徒然

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幼児ソリューション

小沢元民主党代表の裁判の報道をテレビで見た。
この問題について詳しいことはよく知らない。カネの動きが怪しい、といった類の話らしい。

争われていることや個人的な政治に関する意識などとも全く関係がないのだけど、報道を見ていると、だんだん暗い気分になってきた。
それは、小沢元代表が「秘書のやったことで、私は関知していないから、わからない」とひたすら言い続けて無罪を主張していることに対してだ。
もちろん、その主張が正しいかどうかはなんていうことは知らない。裁判というのはそういうものだと言われればそうなのかもしれない。でもその言葉遣いが、現代の無責任な人間に多い「無知・無能力な幼児として振る舞うことで責任を回避するソリューション(幼児ソリューションと呼ぼう)」そのままに見えたからだ。

我々の社会は、責任能力のない人間には責任を問わない。だから「私には能力がありません。知識がありません。だから責任を負えません」というのは正しい。あまりにも正しい。あまりにも正しくて有効だから、責任回避のソリューションとして浸透しすぎたように見える。とりあえず弱い立場、被害者の立場さえ先取すれば、「弱く不遇な状況に置かれた私にはどうにもできないのだ。おいお前、なんとかしろ」と言いたい放題になる。被害者の立場の取り合いをしているような論争すら珍しくはない。不機嫌な人も幼児ソリューションの一種だろう。

そこまではいい。倫理的なことは別にして、それが当人にとって利益になるならそれ自体を咎めることはできない。しかし幼児ソリューションを採用する人間が見落としているのは、幼児は大人としては遇されないということだ。「それは俺は知らなかったことだから、俺も責められても困る」「俺の能力の及ばないことだから、悪いけど俺の問題じゃない」と言い続けていれば、確かに求められる責任の量は減少していく。それは一見楽なことかもしれない。しかし「確固たる自立心と責任感で立ち向かわなければこなせない、その代わりに未来を切り開く機会」はパスされない。幼児だ幼児だと主張している人のところに大人でなければ対応できない案件が渡されるわけがない。

結局、責任を避けていく人というのは責任と一緒に未来を切り開く機会も遠ざけているのではないかと思える。能力がなく責任を負おうとしない人間に重要な事の決定権はない。当たり前だ。でも幼児ソリューションを採用する人々は往々にして「何故自分には良い機会が巡ってこないのか」と言い立てているように見える。そこでも自分を「被害者」に立て、糾弾する相手を探している。でも、その人に「良い機会が巡ってこない」のは、「何故自分には良い機会が巡ってこないのか」と他責的な言葉遣いでしか考えられないことが当の原因なのだ。本人は無知・無能を言い立てることで利益を得るという思考の「病」にかかっているから、「能力があり知識があるから責任を取って動くと言う」というソリューションを発想することを構造的に抑圧している。

当人が幸せならそれでいい。ただ、幼児ソリューションの虜囚は「私はこれこれこういう原因があるせいで幸せでない。誰々にはこれを取り除く義務がある」といった「自分の恵まれなさ」から利益を引き出す発想にとり付かれているので、自分がいかに不遇かを説明するという枠組みから離れられないように思う。端的に言って、幸せじゃなさそうだ。「いやー、幸せだ」なんて言ってたら「何をのんきに」とか言われて「そんな余裕があるんだったらこっちの問題なんとかしろ」とか責任を負わされると思っているんだろうか。そんなことになれば、それこそむしろ自分が呼ばれ(calling)世界にコミットしていく機会であって、言ってみればビジネスだってそういうところからはじまるのに。

小沢元代表の答弁を聞いて「あ、そうですか、知らなかったんですね。じゃーしょうがないですね。無罪ですね」と言った後に心に浮かぶのは「で、たかが身近な秘書の動向程度管理できず責任を負う気がないような人間に任せるような政治があるのか?」ということだ。

at 22:13, K, 考えてみる

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ダブルデート

大学に入学した当初から仲の良い友達がいる。
その友達と、比較的最近、互いに付き合っている彼女がいるということを認識した。
その頃から何故か頻繁に「ダブルデートしよう」と誘われた。

うーん、ダブルデート、か。
話に聞いていると向こうのカップルは本当に元気で若いというか、「ダブルデートって何するの」と聞いたら当然のように「東京ディズニーリゾートとか行こうよ」と言う。
それはきつい。なんというか、ヘビー。いや、落ち着いて考えれば世の中のカップルにとってディズニーランドに行くことは定番というかベタですらあるのはわかる。でも、俺はそんなに元気じゃない。元気じゃないというのは、単純に健康的にという意味で。体力ないし、昔から体が弱いのだ。
でも、そういうことを伝えても、よくわからないが向こうは冗談としか思わないらしい。「大丈夫だよ!行こ!行ってみよ!」と繰り返させる。いや、大丈夫じゃないって言ってるのに。

というようなやりとりがあって、そうか世のカップルはもっと活発なデートをしているのか、ということを考えたりした。極端な例なのかもしれないが、その友達とその彼女はボーリングに行ったりキャッチボールをしたりバッティングセンターに行ったりということがよくあるらしい。あとゲーセンとか。あともちろんディズニーリゾート。
正直、俺にはそんな発想自体なかった。俺と彼女のデートはといえば、ちょっとお買い物しておいしいもの食べて帰る、しかも一日中とか時間は使わないというおとなしいものが圧倒的に多い。なんていうかこう、アトラクション的なものを消費しようという発想はない。もっとも、これは俺が体力がない(本当に体調が悪くなってしまうことは多い)からであって、彼女はもっと健康的で元気であることを付け加えておく。ただ、別にスポーツは彼女もやりがたらないと思う……。

そういう価値観の違いは早い段階で察知できていたので、ダブルデートと言われても正直嫌な予感ばかりがあった。しかし、くり返しておくと、どうも向こうには俺の不健康さというのは概念として理解できないらしい。「なんで? 行こうよ、ディズニーリゾート」という雰囲気、トーンが変わらない。あのね、世の中みんな健康な人ばっかりじゃないんだよ、とゆっくり諭したくもなったがそんなテンションの低い話をしてもしょうがないしてめぇの不甲斐無さのせいで行動が制限されるわけだからそれ自体は申し訳ないことでありこっちが押し付けるのもご都合主義というもので、なんというか強くは主張できない。

そんな中、冬休み(年末年始の休み)に入ったときに「この休み、飲みに行こうよ」と誘われたのでこれはちょうどいい機会ではないか思い、「この機会にお互いの彼女と一緒に、四人で飲むのはどうかな」と誘ってみた。向こうも乗ってくれて、居酒屋で新年会、という運びに。

ディズニーに連れてかれるかスポーツをやらされる可能性が高かった中で(実際、キャッチボールやろうかとも言われた)居酒屋での食事になったのは自分にとってはかなり事がうまく運んだ。

そうして実際会ってみると、友達の彼女は明るくて良い子で、向こうの二人の会話自体楽しくて幸せそうであり、一応色々な話もできたし楽しかった。
そう、楽しかった……は一応楽しかったんだが、帰りにはどっと疲れた。どうも、結局価値観とか趣味とか考え方とか発想とかが根っこのあたりで相違している気がする。正直会話をどう繋げていいのかよくわからず、無理に言葉を探して(も結局あまり喋れなかったんだが)、愛想笑いをしていたという感じが残った。結局その後向こうのノリでゲーセンに行くことになったり(ゲーセンとか全然行きたいとは思わない)してそこでも合わせてたのが疲れに加算されたのかもしれない。君達は「ホーム」の遊び方かもしれないけど、こちらにとってはそうじゃないのだよ、という単純な話。別にさ、相手の趣味で馴染みのない世界に足を踏み込むのはよくある話だし、それ自体に文句があるわけじゃないんだけど、結局馴染めなかったな、ということ。

友達はいいやつだ。友達の彼女も良い子だ。話もそれなりに面白い。でも、何かが根本的に違う感じがして、上手く振る舞えず、疲れてしまった。そんな「ダブルデート」だった。

彼女は、俺ほど疲れてはいなかったかもしれないけど、やはりどこか「合わなさ」は感じたようだった。でも、こういうとき本当にありがたいと思うのは、彼女は社交性のある大人で、その場ではもちろんにこやかに楽しく振る舞ってくれること。別に俺は彼女にそういうことを求めて一緒にいるわけでは全くないけれど、やはりこういう機会があったときにはそちらのほうが有り難いことは間違いない。彼女を見習って、複数の人と会ったりしたときには大人に振る舞えるようにならなければと思った。会話が下手なのを、なんとかしないと。

そんなこんなで、やっぱり最初の心配は当たってしまったか、と思いつつ彼女の家に帰り二人でゆっくりしていた。正直、二回目はいいかな、ぐらいの話をしていた。
すると、友達から「今日はありがとう」という電話がかかってきた。友達曰く「楽しかったし、俺の彼女も楽しかったと言っていた。それで、今度、四人で旅行行きたいよねって話になって」。
お、おぉ、ぐいぐい来るねぇ、と思った。けど困った。とりあえず言葉上は「こちらこそ楽しかったよ。ありがとう。旅行か、また考えよう」としか言えないよね。

向こうの反応はどうも不思議だ。今回四人で会いはしたが、正直俺は何を話していいかわからず、あまり言葉を発していない。主に向こうの彼女が色々と話してくれた。向こうの彼女は一番年下だったし、何かと気を遣ってそれこそ楽しくなかったんじゃないかと思った。でも話を聞くとどうやら本当に楽しかったらしい。向こうから旅行を提案してくるんだから少なくともその意思はあるのだろう。俺の彼女は良い子だからそれはともかくとして、俺なんかと会っても楽しくないだろ、と友達カップルに向けて問いたい気分だ。
友達カップルの貴重な時間を割いているわけだからこっちが楽しかったとか楽しくなかったとか「採点」するのは勝手で失礼な話であって、向こうが楽しんでくれたのなら本当によかったと思う。でも、何が楽しかったの?とぶっちゃけ心から思う。もちろんその場ではそれなりに楽しい会話をしていたけれども、二人でデートしてたっていいわけだし。
もっと言えば、友達が大学で俺に構ってくれることも不思議だ。はぐれものとはぐれものが仕方なく群れてるっていうならともかく、彼には他にも多く友達がいるしそれこそ彼女もいるわけだから、俺に構う理由もなかろうに。自虐とかじゃなくて素直に考えて、別に俺はそんなに面白い人間とは思えない。素朴に、何故なんだろう。聞かれても面倒臭いだろうしなんとなく俺が期待するような意味での答えももらえなさそうなので、直接聞いたりはしないけど。

人と人との関係は不思議だ、と思う。理由は分からないけど、誰かのことを好きだったり、誰かのことを嫌いだったりする。そしてまた理由は分からないけど、誰かに好かれてたり、誰かに嫌われてたりする。理由はよく分からない。考えてみればそんなに好く理由もないし、取り立てて嫌う理由もない。人生って、そんな中であっちに行ったりこっちに行ったりしながら進んでいる、という気もする。

友達の悪口を書きたいわけでは決してない。というか、もし悪口を書かれるべき人間がいるとすればそれは俺だ。他人の性格や行動を云々するのが尊大なことであり、悪趣味でもあることを一応は承知している。友達は本当にいいやつであり、有り難い良い友達だと思う。
ただ一方で、彼にこの先一生会えないと言われても、特に悲しくはないかなと思ってしまう自分がいる。文章にしても伝わらない気がするが、それは別に彼のどこが嫌いとかそういう問題ではないのだ。友人という存在に対する根本的なスタンス、のようなものかもしれない。これはおそらく自分の生まれ持っての性格の悪さ、冷たさなんだろう。彼女と出逢って以来、彼女のことは本当に大切だが、それ以外の人間とは会えなくなっても別に構わない。家族も友達(数は少ないが)も。

ちなみに「旅行行こうよ」の誘いから2日後の今日、大学で会ったその友達から、「プレッシャーかけるわけじゃないけど、こっちはいつでもいいから」と言われた。いや、きみ、それプレッシャーでなくてなんなんだ。

at 01:11, K, 徒然

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年末年始

なんというか、日常をだらだらとつらつらと書く、ということを最近していない気がする。
本読んで勉強して頭良くなろうっていうのもそれはそれでいいけど、いざ日常の時間に何を考えて生きていたのかすぐに忘れてしまうので、たまには書いてみよう。公開するようなものでもないんだろうけど。
というわけで多分だらだらと長くなります。

年末。はじめて彼女と一緒に年越しをした。
スーパーで買ってきたお寿司をつまみながらガキ使を見て、夜にはそば(緑のたぬき)を食べて。
彼女とはゆっくり一緒に過ごしているだけで本当に幸せ。
生きていればいい瞬間というのは訪れるものだ。

それから夜が明けて元旦。兄弟揃って、親に会いにいく予定になっていた。
彼女も帰省するということで途中まで一緒に電車に乗って揺られた。
正直、家族に会うのは好きじゃない。別に家族は存在としては好きでも嫌いでもない。まぁ、みんな幸せであって欲しいし、早く死ぬより長生きして欲しいし、苦しんで欲しくない。でもそのために何か自分を犠牲にして頑張ったりする気にはならない。家族に対してはそんな気持ち。
感情は通じないし従って会話も通じないので、会うのは面倒臭い。でも、たまには顔を出さないといけない、ということらしいので元旦というちょうどいい機会で、祖母にも会えるし出かけた。

ちなみに、母は母の母と暮らしている。父は父の母とまた別のところで暮らしている(祖父はいずれも亡くなっている)。というとなんか揉めて複雑な事情を抱えている家庭のように見られるかもしれないけど、別にそういうわけでもない。父の仕事の都合や母方の祖母の状態等色々あって結果的にこうなっている、という感じ。

俺と姉は一緒に暮らしている(ただ、最近俺は彼女の家に居ることが多いが)。兄貴は一人暮らししている。その兄弟が久しぶりに3人揃った。これはかなり久しぶりだ。いつもは疲れた顔をしている姉が、心なしかテンションが高かった気がする。兄貴はいつ会ってもあまり変わらない。色々考えてはいると思うが、表面上は飄々としている。そういうところ、学ぶべきところがあると思う。

まず母のところへ行った。みんなで回転寿司を食べた。いつものことだけど、この祖母はどちらかというと器用なほうではなく、自分も会話が下手なので、うまくキャッチボールができることがない。何か楽しく会話ができればいいのだけど、ぽつぽつとどうでもいいような会話を少しだけして、あとはその場の雰囲気で母を介してなんとなく話して、という具合で終わる。
でも、祖母は思いのほかたくさんお寿司を食べていたし、歩くのは少し不自由そうだったけど問題なく一人で動け、表情も明るかったのでよかった。何か努力するわけでもないのにこんなことを言うのは無責任でよくないのかもしれないが、病気で苦しんだりせず長生きして欲しいと思う。

それから父のところへ行った。父とも会話はうまく噛み合わない。父の発言は偉そうというか調子に乗っているというかなんというか、「相変わらず」だと思った。こういうとき兄貴はうまい。細かいことは気にせずに、サラリーマントークとでもいうのか、社会人らしさを出して会社や仕事についての話をテンポよくして時間を埋めていく。思えば、子供の頃見ていた「親戚のおじさんたちの会話」に近いのかもしれない。
祖母も交えて数時間一緒にいたけど、ここでも俺はあまり発言をできなかった。祖母には、アルバイトはしていないのか、将来は何になりたいのか、というようなことを聞かれた。祖母は俺が税理士を目指していると聞くと「思ったより頑張り屋さんだね。昔は……アレだったけんども……」と言っていた。受け取り方によっては軽くひどい言いようだけど、これは正しい。頑張り屋ではないけど後段の「アレ」という観察が正しい。なんというか、俺は傍から見ても甘えんぼで自分では何も出来ない子供だったのだろう。そしてそれは今もほとんど変わらない。この祖母は、昔から元気だがさすがに老けたとも言えるし、老けたがそれでも元気そうとも言える。まぁ、さすがにおとなしくなったな、とは思う。

父と兄弟でご飯を食べて、帰った。いつ会っても、中身のある話は全然しない。昔こういうことがあったよな、とか、人生ってこういうもんだぞ、とか、こういうことを頑張っていけ、とか、そういう家族っぽい会話が出る家族もあるのかもしれないけど、このファミレスのメニューどうなんだろうとか、そんなことを言ってるうちになんとなく時間が終わっていく。

帰りの電車の中で、姉と、人間関係の話をした。その中で出た話で印象に残っているのは、仕事ができない人や嫌われている人というのは、別に「悪い」わけじゃないんじゃないか、というような話。別に、望んで嫌われるわけでもないし、特別に邪悪なわけでも、無責任なわけでも、無能なわけでもないということは十分にあり得る。ただ偶然や巡り会わせで思ったような成果が出ないことがあり、そのことでイラついたり焦ったりすると事態がさらに悪くなって悪循環になるのだ。もちろんこれは「できない・嫌われる」側の立場に立っての情感だけど、そう思うと人生というのは冷酷で理不尽だと思った。よくよく考えれば、本当にサボるだけの人間なんてなかなかいない。みんなそれなりに頑張っている。それでも、置かれた境遇やタイミングや人との巡り会わせで、認められたり認められなかったり、上手くいったり上手くいかなかったりする。成功している人は努力家で成功していない人は怠け者だというわかりやすい整理を行えば世界の見通しははっきりする気がするけれども、世界はそのようになっていない。

友達カップルとダブルデートした話も書こうと思ったけどもうこれだけで十分長いので、記事を分けることにする。

at 00:16, K, 徒然

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『寄り道して考える』

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養老孟司・森毅 『寄り道して考える』 PHP研究所 2004



養老孟司と森毅による対談本。何がテーマ、という感じでもありません。社会についてつらつらと語られています。

二人とも、頭でっかちの凝り固まった論理ではなくもっと「自然」に考えようよ、という姿勢を持っているように感じられます。特に、養老孟司はいつも言っていることですが、意識できることがこの世界の全てではない。意識できないようなこともたくさんあるのであって、意識できることの比率がどれくらいかを知ることすらできない。「現代科学で脳のことはどこまでわかっているか」などと問うことの愚を指摘しています。なるほど。

社会のすべては意識されたことだけと思い込んで「ああすれば、こうなる」で考えてしまうある種の病理をどうすれば解決することができるのか。ここで養老孟司は「それをぶち壊すものといったら、もう天災ぐらいしかないでしょう」と言っています。

もちろんこれは不吉な話で、実現しないでほしかった想定です。でも、東日本大震災を経た今、そういうことってあるかもな、と肌感覚で少しわかる気がします。

一瞬であれだけの死者を出す震災が起きて、原子力発電所がメルトダウンして。「そりゃ、そういう可能性もあるかもしれないけど、まぁそんなこと起きないでしょ」なんてことが実際に起きた。私は被災者というほどの影響を受けていませんし、実際生活がどこまで変わったかと言われると驚くほど変わっていないのですが、やはりどこかで人生観の根底が変わったような気がします。

「信じられないようなこと」も、生きていれば起こり得る。というか、起きた。原発だって爆発したんだから、到底起きるはずがないと思われているようなことだって、起きても不思議ではない。人が想定していることの範囲で全てを語れるわけではない。人生なんてわからないことは多いし、偶然にもたくさん影響される。

だからどうする、というものでもないんですが、要するに人の論理や科学の合理性で大真面目に語られていることなんて良くも悪くも「そんなものだ」と思うようになりました。別にそれは全てを信用しないとか虚無主義ではなくて。「人生わからないことはわからないし、偶然どうなるか次第だよな」と割り切る部分を持つことは、案外気が楽で、身の動きを自由にしてくれるように感じます。

at 07:11, K, 読書

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『脳を活かす仕事術』

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茂木健一郎 『脳を活かす仕事術』 PHP研究所 2008



Twitterでフォローしていると「連続ツイート」で何か生活に浸透している感すら持ってしまう茂木さんの著者。ツイートとかブログを楽しく読む感覚で、仕事に関しては何を言っているんだろうと買ってみました。

ほぉ、なるほど、と思うことは色々書いてありますが、個人的にやっぱりそれ大事だよなぁと強く思ったのはスティーブ・ジョブスの哲学である「Real artists ship(本当の芸術家は出荷する)」。発想とかアイデアは大事だけど、それだけじゃなくてちゃんと現物・成果物を出せということです。結局いくら頭の中で考えても、結果として出すものがどういうものかが全てなわけですし、出してみてはじめて自分でも「自分の成果物はこの程度なんだ」と自覚することができますよね。そしてまた改善していくことができる。

成果物と言いましたが人との会話とか面接とかでも同じことだと僕は思います。「“本当は”自分はもっと繊細にいろんなことを考えているんだけど、うまく話せない」んだったら、それは実際的には「うまく話せない人」として存在するしかないわけで、頭の中で色々考えていることは何ら言い訳にならない。それを自分の成果として現実に発現させて相手に伝えなければ意味がない。

さらに、「Real artists ship」の発想は、評論家としてわかったような顔をして意見を言うだけでなくて自ら手を動かして価値のあるものを創造しろ、という人生哲学としても有用でしょう。価値のあるものの創造というのは別にジョブスのようにiPodを作り出すとかユニークな企画の発案とかいうことではなくて、身近にいる人が心地よく居られるようにお茶を出してあげるとかマッサージをしてあげるとかそんなことでも同じだと思うのです。御託を並べるより、現実に世界を良くするためになんか動けと。

と、「Real artists ship」の話に流れすぎました。他に仕事術として印象的だったのは身体を動かせというやつ。頭が集中できなくても、とりあえず身体を向かわせてしまえというのはなるほどと思いました。仕事も勉強も最終的には身体の運動でなくてはありえないですからね。まぁ、身体を向けても結局集中できないことも多いんですが。

ちなみに、茂木さんの勉強法の本も読んだんですが、集中して勉強して目標を達成して、脳が喜びを感じてさらに勉強したくなって、また集中力が上がって成果が出て、さらに脳が喜びを感じて……という好都合サイクルとして紹介される「強化学習」はどうも「理論的にはそうかもしれないけど……」という感じで、知ったからといって実際にそう都合良く物事進んでいかないよね、という印象です。「そんなこと言ってる暇があったら、とにかくやれ」ということなんでしょうが「そうはいっても……」で以下無限ループ、な感じ。

at 06:56, K, 読書

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人気子役の話

テレビでちやほやされる人気者の子役の類が、どうも苦手だ。

子供自体、行動が理解できないし騒がしいからあまり好きではない。好きではないというか苦手だ。で、自分が子役を苦手だと思うのもただ単にそれと同じことだと思っていた。

でも何度もその感覚を味わううちに、「テレビに出てくる子役」に対する気持ちは単に子供が苦手な気持ちとは違う、ということに気付いた。

テレビのバラエティ番組なんかに人気子役が出てくるときには、みんながその可愛らしさに癒されて朗らかな空気になる。ことになっている。なんというか、子供は「子供らしい子供」を演じ、それに対する大人は「子供らしい子供は可愛いものであり、その可愛さを素直に享受する大人」を演じているように見えてしまう。みんながそう振る舞うように無言のうちに場の空気が出来上がってしまうというか。

その、「こういうときにはこう振る舞わなくちゃいけない」という権力性が好きになれないのだ。

自分は子供が好きじゃないから、少し演技が上手いとか顔が可愛いからといって「うわー、○○ちゃんほんとに可愛いねー」なんて思わないし思いたくもない。だいたい、子供だって、本当はもっと冷めているだろう。テレビはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、テレビに出てくる子供はぶりっこに見える。少し気味が悪い。

でも、そんな突っ込みを入れるのは「空気が読めない」行動なのだ。テレビの中の「子役登場、その愛くるしさに出演者・観客一同拍手喝采」の流れにはそんな窮屈さがある。

何かに似ている、と考えて思い浮かんだのが、年長者や職場の上司の親父ギャグ。冷静に考えれば面白くもなんともないしょーもないギャグでも、偉い人の発言だったらとりあえず愛想笑いをしないわけにはいかない。「全然面白くねーよ」と言えるのは心の中でだけ。

「子役の可愛さに感激しなければいけない」空気は「年長者の親父ギャグに笑わなければいけない」空気に似ている。

子供の可愛さを素直に感じ取れない僕は、そんなふうに考えてしまった。いや、みんなは素直に可愛いと思ってるんでしょ。きっと。

at 02:54, K, のはなし

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『そもそも株式会社とは』

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岩田規久男 『そもそも株式会社とは』 筑摩書房 2007



株式会社論、というか企業統治論。「会社は誰のものか」というしばしば騒がれる問題に対して経済学的に記述を展開しています。

結論からいうと、企業はどのように統治されるべきかということについて株主主権論と従業員主権論を比較して株主主権論を支持する論となっています。

しかし著者が繰り返し警鐘を鳴らすのは「会社は誰のものか」という議論をすると感情論になりやすいということ。株主にガバナンスの主権があるということは、なんでもかんでも株主が優先されるべきだとか経営者や従業員は尊くないとかいうことを意味するわけでは全くない、と。この点は、冷静に考えてみれば全く当たり前なのですが、会社システムについて一応勉強しているはずである私もきちんと認識できていなかったなと思わされ、本書を読んでの最大の収穫です。

株主主権論を支持するのは、その統治システムを採用することが全体の利益になるからであり、従業員が大切でないということではありません。落ち着いて考えれば、企業が優れた業績を上げて株価の上昇や配当を達成するためには優良な従業員・経営者が必要です。従って株主は短期の利益や株価の上昇に目が向きがちだとしても、従業員に十分な給料で報いる誘引を持っているのです。それに、経営者が株主のほうばかり見て短期的な投資しか見ず長期的に企業の活力を損ねるのであれば、それは株主にとっての損失でもあり、やはり株主は企業に長期的な視点で健全な経営をしてもらうことを求める誘引があります。

個人的には、「理想的には」そうでも実際にはそこまで株主(投資家)は冷静だろうか、という疑問はあります。短期的な利益追求が長期的には利益を損なうのであれば株主もそれに気付くはずだ、と言っても、短期的な投資を行なう株主が入れ替わり立ち代り現れるだけで事態は変わらないのではないか、と。

いずれにせよ、平易な言葉で、根拠から丁寧に筋道を辿って冷静に主張を展開する著者の学問的マナーはおおいに見習いたいところです。

実はうちの大学の教員にも「会社は誰のものか」という議論が大嫌いだと言って憚らない人がいます。たしかに、「誰のもの」というのはそれ自体意味が曖昧で、問いそのものが議論の混乱を誘うようにできているように感じられます。とりあえずは本書が示しているように「誰が事業のリスクを負担すべきか」「誰が付加価値の分配を優先的に受けるべきか」「企業の付加価値の創造に貢献しているのは誰か」といった具体的な側面について考えるべきでしょう。その上でリスクを負担する人にはリターンが与えられるべきだろう、といったことを論理的に導き出していくことが大切かと。

at 22:33, K, 読書

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